better than you




夏の暑さはまだ少し息を潜めている早朝。いつもより早めに学校についた俺は、学校の片隅にある喫煙スペースで一服していた。
そうは言っても、やはり暑い。煙がなるべく外に広がらないように、小さなテラスのような構造になっている喫煙スペースは、熱気を帯びている。だが、俺はここから逃げない。煙草は、夏の暑さより魅力的だった。
ふとキャンパスに目をやると、美しい黒髪を弾ませながらやってくる一つの陰があった。涼やかな淡いブルーのロングスカートを蹴りながら、白いミュールを響かせてくる。朝日を跳ね返す髪が、虹色の艶を発していた。友人の、ひとみだった。
彼女は、腕時計を一瞥すると、こちらの喫煙スペースにやって来た。おや、と思った。

「ひとみ」

「ヒロユキくん」

俺が声をかけると、ようやく気づいたらしく、彼女は朗らかな笑顔を向けた。
彼女は、「今時」という言葉がおよそ不似合いな、楚々とした美人であった。「カワイイ」とかよりも、「美人」という形容が当てはまると思う。彼女のような女性を、「やまとなでしこ」と呼ぶのだろう。俺のいる『場所』とはあまりに違いすぎて、近づくことをためらってしまう。意図してか無意識にか、彼女自身も人と一定の距離を保ってしまう性質のようだけれど、それが嫌味に感じないのは、彼女の内から滲み出る心の美しさなのだろう、と俺は思う。
「おはよ」
形のよい唇から、笑みがこぼる。
「おう」
俺は、小さく会釈した。ひとみは、俺の隣に立って、スタンド灰皿を囲むようにして問うてきた。
「早いね〜。一限から?」
俺は答える。
「ああ」
「そっか。何の授業?」
「法学」
「私は会計学」
「俺、法学の授業、単位ヤバいんだよね」
「そうなの?」
「『単位ヤバい』って、大学生が一番使う言葉だと、俺は主張します」
俺の言葉に、彼女は、小さく声を出して笑った。
彼女は、鞄から煙草を取り出した。ここにやってきた彼女を見つけたときの疑問がより大きくなる。細い指で一本挟んで、火をつけた。使い込まれているが、かなり上等なジッポーだった。彼女の綺麗な手には不似合いなごついデザイン。髭の生えた、彫りの深い男性の手に収まっている姿のほうがしっくりくるような。
俺は、我慢できなくなって、聞いてしまった。
「煙草…吸ってたっけ?」
ひとみは、ふっと息を吐いた。
「うん」
彼女は、無表情で答えた。ここにも違和感があった。俺の知っている彼女の反応ではない。
彼女が鞄から出したときにチラッと見えたパッケージの雰囲気と、彼女の持っている煙草の配色からして、恐らくかなり強いやつだ。俺が吸っているのがお菓子に思えてしまうくらいに。
「お前、体弱いんじゃなかったっけ?」
「…あんまり強くはないかな」
俺の問いに、煙を吐きながら彼女は答えた。
「あのさ、ひとみ」
俺は、煙草をスタンド灰皿に投げ入れた。ジュッと小さな音を立てて、スタンドの中の水に沈んだ。

「喫煙者の俺が言っても説得力ねーかもしんないけど、煙草、やめといたほうがいいんじゃないの?」
彼女は無表情のまま、黙って聞いていた。ごつい手に似合う例のジッポーの蓋を、涼やかな金属音を立てながら開閉している。
「女の人は、男より発ガン率高いらしいよ」
彼女の長い睫毛が、前髪と喧嘩している。かすかに震えているように見えた。
「何より、お前、似合わないよ、煙草」
彼女の手が止まった。
「あなたに、何がわかるのよ」
煙草をくわえたまま、言った。
「あなたに、何が、わかるのよ」
彼女は、蓋の開閉を止め、ジッポーを強く握りこんでいた。
「ただの知り合いじゃない」
ふっと息を吐いて、
「私もう、これがないと、だめなの」
早口だった。泣いているようにも見えたけれど、瞳は乾いていた。「ひとみ」という名前に相応しい、美しい瞳(め)だった。

「じゃあさ」
俺は、ポケットから煙草のケースを取り出し、彼女に差し出した。
「俺のと、交換しよ」
彼女は、乾いた瞳で俺を見た。深い目だった。その目の奥に潜んでいるものは、どれだけあるのだろうか。
「ひとみが吸ってるのと比べたら、たぶん、お菓子みてーなもんだけど、でも、それ吸うんだったら、これ、吸って」
俺は言った後に、後ろ頭を掻きながら、
「ま、俺の一番の希望は吸わないでくれるのなんだけどね」
俺は、君の心が美しいという、俺の勘を信じてる。
「たぶん、今、俺、お前自身が考えてるよりお前の体のこと考えてるよ」
俺の言ってることが綺麗事かどうか判断するのは、たぶん君。
彼女の瞳だけを見ていた。気がつくと、俺の手には別の煙草のケースが乗っていた。

彼女は無言のまま、去った。ロングスカートのふわふわとした動きが、今の気分に沿わなくて野暮ったく見えた。彼女の気持ちが、早くあのスカートのようになればいいと思った。
俺は、彼女から受け取った赤い小箱から煙草を一本出し、火を着けた。苦かった。体か反射的に拒絶するくらい苦い煙だった。
「こんな苦いモン、一人で吸ってんなよ…」
この苦みが、彼女の一部なのか、と思うと、切なくてチクチクした。俺は、苦い煙を思いっきり吸い込んで、深く深く、吐いた。




20090630






煙草を吸う人は、自分のために吸い始めて、誰かのために辞めるのだと思った。