知らない・知っている




あいつは、いつも笑っている。
広く、浅く。軽いフットワーク。俺には到底真似できそうにない。

青年と呼ぶにも少年と呼ぶにも微妙な、俺たちは高校生。やりたいことを自由にやるには、まだ学校が大きな手かせ、足かせをする。その中で、いかに自分を表現するか。俺たちは、いつも溺れている。




「杉吉ー」
俺は、一番後ろの席で授業の片付けをしている杉吉に声をかけた。
「飯食おうぜー」
俺の誘いに、杉吉は申し訳なさそうに首をすくめて、
「悪ぃ河上、今日、部活のミーティングなんだわ」
「おう、そっか」
「うん、ごめんな。行ってくるわ」
「おう」
俺は、笑顔で教室を去る鳶肩の友人を見送った。
男がいつもニコニコしてたって、何もかわいらしくはないが、アイツの笑顔は、屈託がない。何者にも負けない強さの象徴。アイツの陰を見たものは、恐らくいない。

「杉吉って、いーよなぁ」
昼飯のスタミナ照り焼き弁当を突きながら、徳田がぼやいた。
「俺さ、あいつと同じ中学出身だけどさ。改めて考えると、アイツ、友達多いし、趣味も充実させてるし、勉強もまあまあできんじゃん」
頬に溢れんばかりの米粒を噛みながら、
「野球部も一丁前に部長とかこなしてるし、大学も、推薦でかなりいいとこ行けそうなんだろ?あいつのこと知らない奴、うちの学年にいねーし。俺なんか、アイツが持ってるもの、持ててもせーぜー一個が限界だわ」
「俺もー」
田島が、緑茶で喉を潤しながら、徳田のぼやきに賛同した。
「中学から、なんとなくバスケ部入って、なんとなくバスケやってきたけど、なんでバスケやってんのかもうわかんねーもん。練習さあ、今、楽しいとかよりひたすら辛いもん。ほんと逃げたいね」
田島の言葉に、徳田は、首が折れるんじゃないか、というくらい頷いて、
「田島、それ、ほんっっっとによくわかる。俺、サッカーコートに隕石落ちてこねーかなって毎日思うもん」
「わかるわかる!あと、ボールが突然変異で全部壊れたり!」
「痛くない程度に大ケガしたいよなー」
「痛くない程度に足の骨にヒビ入ったりねー」
「痛くない程度に靭帯とか切れたりな!」
言って、二人で笑った。
「河上は?予備校、どーなの?」
田島が、突如として俺に話を振った。
「え?俺?」
「予備校っつったら、俺ら三人の中ではお前のことだろー。俺と徳田は、杉吉やお前と違って、勉強とは別居中だもん。ぶっちゃけ大学入れるかすら危ういもん」
田島の言葉に、徳田はウンウンと頷き、
「俺ら、ボールと絶賛不倫中だもんなー」
ため息混じりに言った。
俺は少しうつむいた。田島のお茶を持つ手があった。彼が一番身体の発育を伴っていた時期に、毎日バスケットボールに触れていたのだろう。ごつごつとした手。太い間接。本人の気付かないうちに、本人の人生は、形となってちゃんとあらわれているものなのだ。
「ま、無難にやってる、かな」
曖昧、という言葉かまさにぴったりな俺の返答に、二人は満足したらしい。
「頑張れよ、医者の卵!」
「俺を嫁にしてくれ〜」
「徳田、抜け駆けはずりーぞ!俺も玉の輿ー!河上ちゅ〜ん、今夜私を抱いて〜!」
「俺、男には興味ねーから。新垣結衣並の子じゃないとダメだから」
「ハードル高っ!」

適当な会話。適当な相槌。これでも俺は、上手くやっている方。俺の意志とは関係なしに。
俺以外の存在は、すべて尊い。




ホームルームが終わり、嘆きながら部活に繰り出す友人たちを見送り、革靴を履いて、自転車置き場に向かう。
途中、野球部のグラウンドを横切る。独特の低い掛け声。ボールが白い帯を描いてグラブに抱き込まれる。革を叩く音。上がる土煙。テレビの野球中継では見えない、このリアルが好きだった。帰る前に、いつも、少しだけ覗き見をする。運がいいと、杉吉が来てくれて、一言二言会話するのだが。
ふと、ホームベース側のフェンスに目をやると、野球部監督と会話をしているらしい杉吉の姿があった。俺の位置からでは、声はもちろん聞こえないし、監督の後ろ姿越しに、杉吉の表情が若干見えるだけだった。
ひどく神妙な面持ちだった。正直困惑した。考えてみれば、俺は、彼の笑っている顔しか知らなかった。どんな時でも、笑って。軽く、広く、浅く。うらやましいくらい、軽やかな彼が。
監督の肩が小さく揺れた。何か言ったらしい。すると、杉吉の顔色が俄かに変わった。眉をつりあげ、顔を染め、目を見開き、大きく口を開けて。オーラが見えた気がした。空を裂く音が聞こえそうなくらい手を振り上げて何かを訴えている。
監督の肩が、先ほどより大きく揺れ、即座に杉吉が反論した。すると、監督の右手が動いた。杉吉が横を向いて、少しよろめいた。どうやら殴られたらしい。監督が、最後に一言発し、肩で風を切りながらその場を去った。
俺は、呼吸も忘れてその様子をただ食い入るように見つめていた。
後に残された杉吉は、口を固く結んでいた。奥歯を強く噛み締めているようだった。殴られた頬が、紫の痛々しさを彩る。手のひらを強く握りしめ、怒りとも悔しさともとれる表情で、空間を見つめていたかと思うと、おもむろにきびすを返し、グラウンドを出た。
どこへ行ったのかは、わからない。監督を追い掛けていったのかもしれないし、顔を洗いに行ったのかもしれない。
俺にはわからないことだらけだった。けれども、確かにわかったこと。それは、自分が知っていると思っているものを、本当は何も知らないのだということ。友人たちが、俺を知らないのと同じで、俺は、俺が知っていると思っているものを、何も知らないのだ。




次の日、杉吉は、大きなガーゼを当てて、学校に来た。徳田と田島が、しきりに「青春の代名詞だね〜」と冷やかしていたが、彼は、いつもと何ら変わらぬ笑顔でかわしていた。
人間が知っていることは、ごくわずかなのだろう。そして、そんな、本当は知らない自分を、知っている自分だと思い込んで生きてゆく。その思い込みや理想を破壊してでも、現実と真正面から向き合うか、綺麗なまま夢を見ばかりを見ているかは、自分と、そして一握りの自分の周りの人間次第なのだろう。
俺は、最強に意地悪な男と目が合った。いつものように彼は微笑み、
「予備校の先生って、熱血系いないの?」
差し支えのない会話をしかけてきた。
俺は、差し支えのない返事をした。
「熱血はいるけど、顔に青春の代名詞は与えてくれないな〜」




20090626