『それ』しか見てない




「えっ!?ヒロ!何、なんかあったの!?」
今日、顔を会わせた友人たちが私を見るなり皆一様にこう言った。大学で一番仲の良い友人、ヨシコも例に漏れなかった。
ひどい怪我をしてこれ見よがしな松葉杖をついている、とか、人目も憚(はばか)らないで大泣きしている、とか、そんなんではない。何ということはない。腰まであった髪を、耳が見えるほどまでバッサリと切ったのだ。
私は、片手を上げて、こう言う。
「とりあえずおはよう」
「うん。おはよう。おはようだけどそうじゃなくてさ、どうしたのその髪?」
狼狽する友人に、しれっと言ってのける。
「ちょっと切ってみた。ショートにすると今まで着てた服が似合わなくなってヤバいね。朝からプチ運動会だよ」
「運動会はいいけどさ、ちょっとなんてレベルじゃなく切ってるよね?バッサリだよね?久しぶりに見たふかわりょうがマッシュルームカットやめてたくらいの衝撃はあるよね?」
よくわからない例えを引き出すヨシコ。次の授業が同じなので、並んでホールでエレベーターを待つ。すし詰めにされるのが嫌で、一人の時は階段を使うのだが、まあ大人の社交辞令というものは必要なのだ。授業と授業の合間の短い休み時間のあいだ、エレベーターはお昼どきのお弁当屋のおばちゃんと同じくらい過酷な労働を強いられる。
「うわー。それにしてもバーッサリいったねぇ。どんぐらい切ったの?」
「50センチくらいあったかな?美容院の床がホラー映画みたいになってた。髪の海状態」
「そうだね、腰くらいまであったもんね。いやー、ずいぶん思い切ったね!」
大声を上げるヨシコ。人前なのに大声をあげるのはいい加減やめてほしい。私たちも社会人の卵なんだから。それがまだ許されるのは、私たちが女であり、しかも大学生という肩書きつきだからなのだろうけど。




エレベーターで、息をするのにも気を使うほど密集させられて、五階に着くなりそれが解放される。いくつかのグループに別れ、それぞれの教室へ向かう。私たちもその一つ。
「で?何で髪切っちゃったの?もしかして、別れた?」
ヨシコが好奇心に目を輝かせて聞いてくる。私は沈黙した。ヨシコがとたんに気まずい表情を作った。
「…え?ホントに?」
なお沈黙した。ヨシコがあちゃー、と言って額に手をあてた。おそらく彼女は今こう思っている。『実際に失恋して髪切った人、初めて見た…。小説やアニメの中での話だと思ってたよ。参ったねこりゃ』と。
私だってそう思っていた。髪に願いを掛けるなんて、好き者のすることだ、と。願うなんて、なんだか馬鹿馬鹿しい。髪が伸びるのなんて、ただの生理現象だ。息をするのと同じことだ。呼吸に願掛けする人はいないのに、なんで髪はいいんだ。意味がわからない。
ただ、当事者になって初めてわかることが、世の中にはたくさんあるもので。岡目八目とは言うけれど、それは、当事者の気持ちを知らないから好き勝手に言えるのだ。人間は感情と上手に付き合っていかなければならない。時には感情に支配される。支配されてはいけない時もあるけれど、それがあってこその人間だと思う。
この学校一番の規模を誇る大講堂は、前の授業が長引いているらしく、まだその入り口を固く閉ざしていた。私は、廊下のベンチにヨシコと並んで腰をおろす。
「シュンくん、結局浮気やめなかったの?」
ヨシコが囁(ささや)いた。気遣う言葉に私は頷いた。『表情の消えた表情』を上手く作れていたと思う。
「いけないこととはわかりつつ、ケータイ見たら女からのメールで埋まってた。さらに、この前女と肩組んでいかがわしい通り歩いてんの見た。挙げ句にはあいつの部屋で女とイチャついてる場面に鉢合わせだよ」
「うわぁ…ドぎついね〜…昼ドラ顔負けじゃん」
ヨシコが、心底気の毒そうにため息を漏らした。
あいつが、女を抱き抱えながら、長い髪を手の中で遊ばせていたイメージが消えない。
髪を切ることで、あいつを好きだった私に、別れを告げたかった。髪を切ったくらいで中身は中々変わらないとは思うけど、外見から変えてゆくのもひとつの手段だと思った。
切るのがめんどくさいからという、特にこだわりのない理由で伸びた髪だったけれど、いざなくなってみると妙に寂しかった。まだ、あいつを好きでいたいという私の本音が、そうさせているのだろうか。
あいつは、長い髪の女が好きだった。
ヨシコが身体ごと私に向き直って、
「でも安心したよ。なんかシュンくんと付き合ってるときのヒロ、幸せそうというより辛そうだったもん。何言っても別れようとしないし。『恋は盲目』って、ヒロのためにある言葉だと思ったよ」
「…『幸せ』と『辛い』って、字は似てるのにね」
私は空中に小さく文字を書いた。




この痛みも含めて、愛なんだと思っていた。




もう未練はない。心底うんざりしていた。あいつは子供だった。分別のない態度で、秩序を守るでもなく、風まかせで生きている。好きなときに、好きなものを、好きなだけ。その身軽さに憧れていたことも事実だった。けれど、付き合ってみてわかった。あいつは身軽なのではない。たぶん本人も知らず知らずのうちに、他人にのしかけているのだ。あいつが捨てている重いものを、私が代わりに背負っていたようで、息をするのも辛かった。私は廃品回収者じゃない。
髪にあいつの『重さ』に、『思い』も乗せて、切り捨てた気でいた。




扉一枚隔てた先で、人々のざわめきが広がった。授業が終わり、息苦しさから解放された人々が出てくる。
どちらともなくため息をつき、ヨシコと揃って立ち上がり、中の人間が出る波を待っていた。学生たちが笑いながら、あるいは疲れた顔をして出てゆく。
ふと、私は息を止めた。小さく飲み込み、反射的にきびすを返し、廊下を逆走した。体が、心の言うことをきかなかった。
「ヒロ?どうしたの?……あ」
入り口に背を向けたまま、背中でヨシコの声を聞く。何かに気付いたらしい。
「あ、ヨシコちゃんじゃん」
ヨシコの声のしたあたりから、酒やけした、かすれた男の声がする。何度も聞いた、もっと聞きたいと願っていた声。今は聞くのも嫌だ。
私はもう何とも思っていない。心の痛みなんかない。だから、相変わらず髪の長い女と一緒に教室を出てきたあいつに、冷笑のひとつも食らわせて皮肉でも言ってやりたかった。なのに、顔も合わせられなかった。
逃げているみたいじゃない。
「…シュンくん」
ヨシコの驚いた声に、あいつは明るすぎるくらい明るい声で、
「次の授業、ここなの?」
「…うん、まあ」
しかたなしに調子を合わせるヨシコ。
「俺、今日の授業もう終わりだよ〜ん。いいっしょ?」
あいつの笑い声。軽い。私は手を固く握りこんで、背中で聞いていた。
「じゃあね。授業がんばって〜♪」
あいつの声が遠ざかってゆく。私はなんだか悔しくて、唇を噛んだ。
「……ヒロ。ねえ、ヒロ。行っちゃうよ。なんか言ってやんなくていいの?」
ヨシコの言葉に、私は沈黙して俯いた。だって、私とあいつは、もう何の関係もないもの。
私の煮え切らない態度に痺れを切らしたヨシコが、あいつに叫ぶ。
「シュンくん!」
「何?」
答える、お気楽な声。
「彼女に、何か言うことないの?言わなきゃならないこと、あるんじゃないの!?」
ヨシコの声は、苛立っていた。私の後ろ姿を指しているようだった。心からの言葉だった。フランクな社交性が求められる大学で、こんなにも素敵な友人に出会えた私はスーパーラッキーだと思う。
怖くなんかないのに。何て言われようと怖くないのに。関係ないんだから。
なのに、震えがとまらなかった。
ほんの一瞬なのに、永遠とも思える彼の沈黙があった。彼は、あははと能天気に笑った。
「ヨシコちゃん、その子、誰?俺、この大学で髪の短い女の子なんて知らないよ〜」




人のざわめきが消えた。授業が始まり、教室の入り口が閉められた。
「…ヒロ」
後ろから、ヨシコの声がした。弱々しくて、なんだか泣きそうな声。
私は振り返って、笑った。
「彼、私のこと、『見て』なかっただけだったんだね」




20100109






髪切るのに、理由が必要かい?