マッチ売りの少女、屋上 ライターの火を、消えないように大事に手で包み込み、煙草に日をつける。火は愛しい。古代の人々が火を愛し、恐れていた理由がわかる魅力を持っている。こんなに愛しく囲うあたしは、マッチ売りの少女だろうか。 煙草の苦い煙を吐き出すと、風にあおられて空間を切るように横に流れて消える。 あたしは、もう片方の手でフェンスを軽く掴む。自然と眉間に皺が寄る。ようやく長い卒業式が終わったらしく、体育館から出てくる人の姿がちょろちょろと見える。辛い儀式から開放された生徒は、なんだか何倍も楽しそう。そう見えるのはあたしの目だからかもしれないけど。 「めんどくさ…」 あたしは思わず、ため息とともに言葉を吐き出していた。 「なーにがめんどくさいのさ」 いきなり後ろからかけられた声に、肩越しに振り向く。戸口のあたりにクラスメイトの高橋が怪訝そうな顔をして立っていた。彼とあたしの関係がただの『クラスメイト』というだけなのかは非情に微妙な所。あたしはそれ以上にはなりたくないのだけれど、あっちがどう思っているのかはまた少し別の話。 あたしは小さく舌打ちし、 「うぜぇのが来たよ」 露骨に嫌そうな顔を作りながら、毒を吐いてやった。よく、「口が悪い」と指摘される。しかし、彼は大して気にした様子もなく、 「悪かったわね〜うざくてぇ〜。お前こそ、風でスカートひらひら、パンツ見えてるぞ」 「殺すよ?」 「おー、怖い怖い」 軽口をたたいて、顔にしわを寄せて笑った。 長身でスタイルのいい彼は、学ランを完璧に着こなしている。スポーツもそれなりにできるらしいのだが、部活には入っていない。本人曰く「めんどくさいから」。得意分野と好きな分野は、必ずしも一致しない。特に何をするというわけでもなく、適当にバイトで日々の余暇を埋めているらしい。 高橋は、いつもどおりにあたしの近くまで来て、フェンスに背を向けて、あたしの隣にちょこんとしゃがみこんだ。フェンスがかしゃんと音をたてた。 「お前、また痩せたんじゃねーの?」 ポケットから煙草を弄りながら、ぽっと浮かんだだろう質問を投げかけてきた。 あたしはひょいと肩をすくめて、 「さあ?体重計乗ってねーからわかんね」 陽気な声で言い放った。高橋は、苦笑しながら、 「まーたろくなもん食ってねえんだろ?」 「食ってるわよ。酒とタバコ」 「食ってるって言わねーよ、ソレ。あ、何だ?『佐藤語』では『食ってる』って意味なのか?」 「わけわかんないわよ、アンタ」 「顔色悪ィし…真っ青じゃねーか」 「超美白なの」 あたしの言葉に、高橋は煙草の煙を吐き出しながら笑った。「あ〜ニコチンが補充されてるわ〜」とかしみじみ言う姿は、高校生とは思えない。いろんな意味で。 正直言って、高橋の言葉は当たっていた。最近のあたしの食習慣は、お昼にパンと紙パックの飲み物くらい。朝と夜は水分以外とらない。食費は一日で500円かからない(酒と煙草を抜かすとすれば)。女の子は、何もしなくても自然に二十歳前後に体重が減ると聞いたことがあるけれど、あたしの場合は『体重が減る』というよりは、『体が削り取られる』に近い痩せ方だった。 高橋の心配は、心地いい。他人の愛情や慈悲をすぐに『うっとおしい』と感じてしまうあたしが、唯一心地いいと感じられる。 その点、彼の心遣いは快適であった。踏み込まず、離れすぎず。彼は、人との距離のとり方がすごく上手いんだと思う。 「式、終わった?」 あたしは、聞いてみた。高橋は、眠そうにあくびをかみ殺しながら、 「あー。だいたい終わった」 「だいたい?」 「歌ってるあたりから抜け出してきた」 「それ、世間一般的には一番盛り上がると考えられてるところよね?」 「俺の美声を披露するには拝聴領がかかるのー。式だって別に出たくて出たわけじゃねーし」 「ま、もっともだけどね」 あたしは空を仰いだ。馬鹿みたいに真っ青な空。『東京には空がない』なんて詩を読んだことがある気がするけど、どこにだって空はあるとあたしは思う。ただ、地球から見る空は、偽りの空。偽物だけど、東京にだって空はある。地球上に存在する全ての空が所詮偽物だから、東京だって北海道だってブラジルだって、偽物の空は偽物の空だ。 「佐藤は最初からサボってたよな?」 「よくわかったね」 あたしは目を見開いた。素直に驚いてしまった。ばれないように、かなり気を使って抜け出してきたつもりだったのだが。 「式」とつく名前の行事は、本当はその儀式の主人公たちのためにあるのではないと、あたしは勝手に思っている。当事者たちの周りの人間が感動するためのものだと。 親たちは、自分の娘、息子たちの成長した姿に喜び、一抹の寂しさを覚え、教師たちは、巣立ち行く生徒の姿にまぶしさを感じ、彼らと歩んだもう戻らない日々を思い返すように瞳を閉じる。在校生たちは、自分たちの憧れの対象が去ってしまう悲しさと、自分たちも来年・再来年はあのように巣立っていくのだと自覚し、気持ちの切り替えをする。 そう。あたしも来年は、あの面倒くさい空間にいなければならない。 あたしから見ればそんな儀式なくても、ちゃんとケジメくらいつけられるし、友達とのベタベタした付き合いも面倒くさくてたまらない。 どうせ、卒業した後もこの学校に来ることはできるし、友達に会うことも容易だ。メール一通、いつ、どこで、会おう、と。たったそれだけで会える。「お別れだね」「寂しいね」「絶対また会おうね」「ずっと友達だよ」だなんて、一々面倒くさい。言葉は、気休め。どんなに愛の言葉を囁いても、心がそこにいなければ意味のない。空に飲み込まれるだけ。本来ならばあんなことする必要もないのだ。 卒業式に対して、こんなドロドロした薄汚い感情を持っているものなどいない。嫌だ、嫌だと言っている連中も、『別れ』や『巣立ち』という言葉の響きが少し悲しいだけで、本当にその式を疎く感じているものなどいない。 だから、あたしはこの気持ちを吐き出すことができない。かといって、吐き出す以外にうっぷんを晴らす方法も知らなくて、こうして一人、屋上で煙草なんかふかしている。 不意に、隣で高橋が、あ、と小さく言った。 「あれ、お前が告白した先輩じゃねーの?」 予期せぬ言葉に、驚き、弾かれたように顔を上げると、高橋が、体育館から出てきた人の群れの中のひとつの中心を指差していた。くわえていた煙草がぽとりと落ちた。 ひときわ背が高く、いつでも輪の中心にいる。彼の笑顔は、いつだって人々を惹きつける。 あの笑顔が欲しかった。あたしには決してない、あの、笑顔が。 「…………なんであんたが知ってんのよ」 驚きで開いた口がふさがらないのを自覚しながら、落ちた煙草の火を足でもみ消す。しかし、視線は黒の中心に釘付けにされて動かない。同じバスケ部の先輩が笑いながら肩を叩く。何か言われて彼が笑う。手近な人に頼んで、友達と写真を撮り始めた。 「…見ちゃったんだよね、告白現場」 隣から聞こえる高橋の声は、若干気まずそう。思わず言ってしまった、という感じだった。 …見られたのか。あの現場を。こいつに。最悪だ。人生最大の屈辱。 屋上に、沈黙が訪れる。どれくらいだろうか。非常に長かったようにも、とても短かったようにも思える。隣で高橋が、決まり悪げに頭を掻く音までしっかりと聞こえた。高橋お気に入りの、ミントの香りのする煙草。 「…酒も煙草もさ、」 あたしはおもむろに口を開いた。 「ん?」 問い返す高橋の目を横目で一瞬見た。まっすぐな目をしていた。素直にあたしの話を聞いてくれようとしているのがわかったから、あたしは言葉を続けた。 「酒も煙草も、やってみるまでは『何であんなまずいもの』って思ってた。あたし、甘党だし。…でも実際にやってみると、こいつらの良さがすごいわかるようになった。特に、大人に近づけば近づくほど、ね。ストレス社会で戦う大人が、アル中とか、肺ガンとかになるまでこいつらに頼っちゃうの、わかったわ」 酒や煙草は、ある意味一種のクスリだ。一瞬の快楽をもたらしてくれる。それが欲しくて、刹那でも楽になりたくて、手を伸ばす。大人はみんなジャンキーだ。スーパーやコンビニで買える、法に触れないドラッグ漬け。 高橋は、いきなり関係のない話題をしだしたあたしに、特別突っ込むこともせず、 「…人間って、あんま頑丈じゃねえもんな」 「弱いわよね」 本当に、弱い。強くなりたいのに、一人じゃ生きられない。 黒の中心に、一人の女子生徒が近づいていった。彼女の、艶のある黒髪が朝日に照らされて天使の輪を放つ。先輩が、照れたように笑って、制服のボタンを引きちぎって渡した。 あたしは、ライターを取り出して、火をつけた。煙草につけるでもなく、じっと見つめた。火は、愛しい。産み出すこともできるし、全てを、壊す、ことも、できる。 「ねえ」 あたしは問うた。 「ん?」 「高橋はさ……生きてて、楽しい?」 カチッ。 片手を横に伸ばす。ライターの炎の向こうで、高橋がゆらめく。この炎は、全てを、壊す、ことが、できる。 高橋は、炎の中で真っ白な表情をしていた。かすかに笑った。 「…消えちまいてーよ」 高橋の言葉は、空に消えた。 「そんな楽しいもんじゃねーじゃん?」 空に向かって煙を吐く彼。吐き出したミントの煙が、もうひとつの雲を作った。 「でもさ、」 彼の指に挟まれた煙草が、器用に一回転した。 「生きてかねーといけないんだろうな」 火が消えた。彼の無骨な手が、あたしの右手から火を奪い取った。包み込むように優しく。 彼は、青い空の中で、寂しそうに微笑んでいた。ああ、彼も一生懸命日々を生きているだけなのだと、感じた。急に世の中が愛しくなった。 「…そっか」 彼は頷き、ライターをあたしの手に置いた。軽く開いたあたしの手を包み込んで、ライターを握り締めさせた。 高橋は、気持ちよさそうに一つ伸びをした。携帯灰皿に煙草を放り込んで、 「さーて、そろそろ教室戻りますかね。ホームルーム始まるだろーし。テキトーに流してさっさと帰ろ帰ろ」 下へ降りる階段に向かって歩き出す。数歩歩いたところで、彼は思い出したかのように肩越しに振り返った。 「ところでさあ、お前、そろそろ俺と付き合う気になった?」 今日の晩御飯のおかずを問うかのような、なんともない表情で、彼は言った。 「やだ」 今日の晩御飯のおかずをたずねられて、知らない、とでも答えるかのような、なんともない表情で、あたしは言った。 「あたし、今のあんたとの関係すごく気に入ってるの」 「そうか」 「うん」 あたしのはっきりとした物言いに、高橋は苦笑した。 「あげる」 あたしは小走りで階段に向かい、高橋とすれ違い様にオイルの切れたライターを投げてよこした。火の出ないそれは、愛しかったけれど、あたしにはもう必要ないもののように思えたから。 高橋は小さく噴出した。 「オイル空じゃん。ローソンのシール貼りっぱなしだし」 「命より大事にしろよ」 「サヨーでございますか。キョーシュクでございます。お礼と言っては何ですが、お昼に私めとご一緒に、ラーメンでも食べに行きませんか?」 「いーじゃん。高橋のおごりね」 「気のせいかもしんないけど…なんか俺、踏んだり蹴ったりじゃね?」 「気のせいよ。それに、あたしと一緒にご飯が食べられるなんて最高の特権じゃない」 「はは。最高な特権だな」 小言を言い合いながらあたしたちは屋上を後にした。きっと、あたしには、しばらく火と煙草はいらない。火の赤と煙草の白より、今はこの関係が欲しい。 屋上のマッチ売りの少女は、それ以来、姿を消した。 20090427 無意識のうちにタバコをテーマにした小説を何本も製作している自分を見て、タバコが私の人生において何がしかのシンボルになってることをつくづく感じた。 身の回りに喫煙者もいないし、当人、舐める程度にしか吸わないんですけどね。 |