心の夏バテ




「俺さあ、どーも心の夏バテ中みたい」


夏のビール値下げキャンペーン期間を狙って訪れた居酒屋で。
高橋は、ビールの中ジョッキを三杯ほど空にした所でそう呟いた。


「は?」
あたしは、マドラーを使ってカクテルの中の氷を掻き出し、口に含んだ。
「おはへ、はりいっへんの?はひ、『こころのはるはへ』って?」
「『お前、何言ってんの?何、「心の夏バテ」って?』ね。うーん。まあ上手くは言えないわけなんだけど。っていうか、男の子の前なのに遠慮なく氷バリボリ食べてるあたり、もう俺に色目使ってくれる気はないわけね」
「あたしは誰に対しても色目使ったことはないわよ」
「俺はいっつも佐藤に色気ビンビン感じてるけどなー。ウヘウヘ〜」
「鼻の下伸ばすな。そんなに天国に召されたい?」
「いや、俺、傘寿くらいまでしぶとーく生きたいからやめときます。……うーん」
高橋は、枝豆を口に運びながらしばらく考えていた。腕時計と黒いポロシャツが、薄暗い照明の中で存在感を増す。彼は学ランは学ランできれいに着こなすけれど、私服も清潔な好青年風で好感がもてる。
今時の高校生は、女は軽く化粧すれば年齢なんかいくらでも誤魔化せるし、高橋もあたしも、どちらかといえば大人びた顔つきをしている。加えて、彼は、受付を通過するときと注文をとるときはサングラスとかかけているので、中々バレそうにはない。今まで数度居酒屋に行ったことはあるけれど、身分証の提示を求められたことはなかった(ちなみに、彼がサングラスをかけると、好青年っぷりがとたんに雲散霧消する)。
お互いに仲の良い友達が少ないので、まあ半ば腐れ縁のような形で飲み仲間と化していた。
「この前さ、」
高橋は枝豆の皮をぽい、と皿に投げ入れて、
「バイト終わって風呂はいって、某甲子園ダイジェスト番組を見てたわけだよ」
「熱闘?」
「そ。で、不覚にも、俺、泣いちゃったわけ」
「え?あれ見て?」
「うん。あの番組さ〜。めっちゃよくできてんじゃん。まさかあれで泣くと思わなかったわけよ、俺も」
「ふーん」
「でさ、『なんでこれ見て泣いてんだ、俺?』って色々考えた時に、俺、充実した夏休みを送れたためしがないからなんだなって結論に至ったわけよ」
高橋は、無造作にサングラスをかけると、そばを通る店員をつかまえて、ビールとエビマヨを追加注文した。店員が去ったのを確認すると、静かに外した。
「そのサングラス、意味ないと思うけど」
「いーのいーの。気分だよ。…でさ、同い年のやつでも、俺とは全く違う人生送ってんだなー、って、思ってさ。したら、なんだか心が夏バテ。その日は日付変わる前に寝たね。次の日お肌が潤っちゃったわよ」
枝豆の最後の一房を食べると、高橋はおしぼりで丁寧に指を一本一本拭いた。あたしは、彼の手を見つめながら、
「…心が夏バテしちゃう気持ち、ちょっとわかる気がする」
小さく頷いた。高橋は、目を丸くして、
「を、まじで?」
「うん。『多岐亡羊』ってやつ?」
「なんだ?タキボウヨウって?」
高橋は首をかしげた。あたしは眉間にしわを寄せて、
「この前国語の授業でやったでしょーが」
「俺、国語の授業は『先生の話』と言う名の催眠術に、素直にかかってるから」
「胸張るな。ちっとは抗(あらが)え、催眠術に。…昔々、一匹の羊が逃げ出しました。村人は、大勢でおいかけました。しかし、その途中、道がいくつにも分かれていて、逃げた羊を見失ってしまいました。転じて、学問の道が多方面に分かれて、真理に達するのに苦労することのたとえを、『多岐亡羊』といいます」
「ふむ。昔の人は頭やわらかいよね」
高橋は、この四字熟語と、彼の心の夏バテの要因がどう関連するのか、いまいちピンとこなかったらしい。あたしは、鶏の軟骨を飲み下し、
「久しぶりに友達に会うと、別人になってたり、しない?」
「うん」
「あたしたちが歩いてる道って、同じじゃないんだな、って」

あたしたちは、彷徨える子羊。同じ道は決して歩けない。幼稚園が同じだった奴らも、小学校は別々の道に進む。小学校が同じだった奴らも、中学校は別々の道に進む。中学くらいまでは、そんなに飛び抜けた、奇抜な人生を送っている人はごくごく少数だった。けれど、高校は少し違った。育ってきた庭が、全然違う者たちが一気に増えた。真逆の者もいる。そうしてあたしたちは、人と自分の道を比べることで、どんどん孤独を強く感じる一本道に進まなければならないのだろう。
夏を甲子園に捧げる人もいれば、受験勉強に心血を注ぐ人もいる。バイトで余暇を埋めるだけの人もいれば、窓からひたぶるに入道雲に恋い焦がれるだけの人もいる。一日の質は違えど、価値は平等。どんな夏を過ごすかも自由だけれど、どんなふうに過ごしても、消費した夏の期間は皆同じなのだ。

あたしと彼の間だけ、しばらく沈黙が落ちた。オッサンが馬鹿みたいに笑いながら店の入り口をくぐる。「いらっしゃいませー!」やたらとハイテンションな店長が客を迎え入れる。先ほど注文したビールとエビマヨが届く。エビマヨを盛り分けながら、
「うん、ちょっとわかった気がする」
高橋が呟いた。
「じゃあさ、佐藤、とりあえず牧場行かねぇ!?羊の毛、刈りに行こうよ!」
「は?なんで?やだよ、牧場とか遠くない?東北じゃないの?」
「ふっふっふ、それがだね、関東にもあるんだよ、一般人向けの牧場観光用施設が!そんで九十九里とか行って、海行こーよ!佐藤ちゃんの水着姿、見たいな〜!」
「海とか絶対やだ。なんであんな面積少ないくせにバカ高い水着を、お前の性欲のために買わなきゃいけないのよ」
「あっ、なんだったらオイルとか塗ってあげますよ!あれって男のロマンだよねぇ!」
「天国に召されろ。酔いがその口を動かしているのだとしても召されろ」
「ま、水着のくだりは冗談としてもさ」
高橋は、ふっと笑った。
「俺たちは俺たちの夏、作ろうぜ」
酔っぱらいたちのざわめきが煩いこの店で、その言葉だけがあたしの耳によく届いた。
「そうだね」
あたしは言った。何となくちらりとある一席に目をやると、そこに新規で通された客の一団に見覚えがあった。
「ゲ!」
あたしは呻いて、あわてて顔を伏せた。
「何なに?どしたい?」
『あそこの角の席!あれ、うちのクラスの担任!』
「嘘つけよぉ〜。そんな偶然あるわけなマジだ!」
高橋は、その客を見て言葉の途中で血相を変えた。あたしたちは顔を引き寄せて声をひそめて、
『ど、どーする?学年主任とかもいるよ。バレたらマズいよね。店、出る?』
『そうだな。一通り食べたし…』
『でも、あそこの隣通らないと店出らんないよ?』
『大丈夫だよ。俺が佐藤ちゃん抱き締めて隠して通れば見えないから』
『ビールで溺死させるよ?』
『そんな怒るなよ。よし、まあ上手く出ますか』
教師一団が注文してる隙を見計らって、上手く会計を済まし、店を出た。いつもさりげなく多めに払ってくれる彼は紳士。居酒屋の薄暗さから、街の白々しいネオンが目に痛い。
「どうする?もう一件行く?」
あたしが聞くと、高橋はレシートを財布にしまいながら、
「うーん。じゃあそろそろホテルにでも…」
「行くかボケ。死ね」
「ま、それは冗談だとして」
高橋は、カバンから手帳を取り出した。
「牧場行く日、決めますか」
青と白の光の滝のようなネオンを浴びて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

『夏が過ぎて思い出になれば。
君の心も、元気になるよ。』

そんなことを暗示させる笑顔だった。
「お盆あけなら暇だよ」
夏の終わりを予感させる夜風を感じながら、あたしは言った。




20090820






高橋と佐藤シリーズ第2段。
作者は、男女の友情は成立しないと思いながらも、こういう関係に心の底から憧れています。