甘いワナ 〜Paint It, Black〜 1




「先生、何を描けばいいんですか」
ブラインドから光の漏れる、油絵担当の三ノ輪教授のオフィス。古い建物独特の、心にのしかかるようなプレッシャーを感じながら、あたしは問いかけていた。
三ノ輪教授は、灰色と白の交じる眉をひそめた。
「スランプってやつか」
「はい」
あたしは、素直に頷いた。
教授は、所々カバーのやぶけた穴からスポンジの覗く椅子をくるりと回し、あたしに向きなおった。椅子が、耳障りな悲鳴を上げた。
「どうした、近堂。いきなりだな。今まで飛ばしすぎたか」
「はい」
あたしは、三ノ輪教授のオフィスの入口で、再び頷いた。
芸術家の多くは、心に自分のテリトリーを持っている。そこは誰も侵すことを許されない、いわば彼らのコアのようなもの。ましてや大学教授ともなると、オフィスはいわゆるアトリエであり、アトリエには貴重な作品が多々あるもので。オフィス内に自分以外の存在が踏み入ることを禁止している教授は少なくない。三ノ輪教授も例に漏れず。会話が、研究棟の狭い廊下に響き渡り、最低でも隣の部屋くらいには筒抜けなのが若干気にかかるが、そんなことを言っている余裕は、今のあたしにはあまりない。
教授は、絵の具まみれの作業着の袖を下ろす。何年使っているのだろう、絵の具は、白の上に赤、その赤の上に黄色、その黄色の上に青と、何色も重なっている。あたしの心みたいに、煩雑な色彩。煩悩だらけの、乱れた色。
「お前、二年になったばっかだな」
教授は、ぼそぼそと低い声でつぶやいた。白と灰色の口ひげが、唇の動きに合わせて揺れた。大学教授なんて、生徒の学年と名前にはおよそ興味がないものだ。三ノ輪教授は、あたしの名前を覚えている分だけ、まだ人間味があるほうだと思う。
「絵描いてるのはいつからだ?」
「中学からです」
小学生の図工の授業が、レベルアップして美術に変わって。使う画材も、取り扱うジャンルも格段に進化していて、それらはあたしの興味を惹いた。絵筆が、カンバスが、パレットが、発光して見えた。中学一年で初めてアクリルガッシュを使って自画像を描いた時、あたしはこの道に進もうと決めた。
「近堂」
教授が、低い声であたしの名を呼んだ。お腹の底に響いた。深い声だった。ふっと短く息を吐いて、ただ憤慨している声とも鬱陶しさを感じている声ともつかない響きで、言った。
「絵描きなら、スランプの存在は知ってて当然だろうが。他人に『何描けばいいか』なんて聞いたら、お前の芸術家精神は死んだようなもんだぞ。軽々しく口にすんじゃねえ、馬鹿野郎」




聞いてはいけないの?
あたしの行き先、人に、聞いてはいけないの?




あたしは、石像に囲まれた美術講堂の一角で筆を動かしていた。高い天井。その近くにあるガラス窓から、光が注ぐ。ほこりがキラキラと閃光を放つ光の粒となる。
校舎とは別に、独立して建造されたこの建物は、美術科の生徒が授業の一環として時々利用する。かなり立派な建物なので、この講堂で美術科の生徒の作品展覧会が行われたりもする。特に催し物がない時期は、普通に授業で使用するし、雰囲気もよいので、生徒たちが自主制作をする際によく使用する。かく言うあたしもその一人だ。
よく磨かれた大理石の床が、空を反射して青く光る。青の中で、筋肉隆々とした男性たちが、思い思いの体勢をとっている。石膏でできた端整な顔は、いつもより白くのっぺりとして見える。
あたしは、カンバスの向こう側の、小さなテーブルの上に乗った果物とワインボトルを見ていた。正確には、視界の中に入れていただけ、とでも言うのだろうか。絵を描くという心で、それらを見つめていなかった。
今まであたしは、何度も自分の行き先を自分で選択してきた。正直な話、自分で決めることは苦手だ。他人に言われたことをきちんとこなす方が性に合っているし、何より楽だ。そんな駄々をこねても、誰もあたしの行き先を決めてはくれないし、教えてはくれなかった。だけど、あたしはあたしの道を選んできた。走ったり、立ち止まったり、迷ったりしながら、あたしの意志で。
それでも、躓いてしまうこと、あるでしょう?一人で立ち上がれないこと、あるでしょう?誰かに手を差し伸べて欲しいとき、あるでしょう?今までずっと頑張ってきたんだよ。たまには手伝ってくれたって、いいでしょう?
絵を描く、ということは、独創。他人の力を決して借りることのできない、己の精神との戦いの中で産み出す、孤独の産物。心という名の海の底から、微(かす)かに燦爛(さんらん)と輝く己の光を連れて来る。酸素ボンベなんかもちろんない。どれだけ人魚姫になりきれるかが勝負なのだ。
全てわかっていて、あたしはこの道を選んだ。
窒息してしまいそう。
「あたしは、マーメイドにはなれないのかな」
気がつくと、パレットに乗った色を全て混ぜ合わせて、カンバスを塗りつぶしていた。黒く、黒く。あたしの心も、黒くなってゆく。
「馬鹿だなあ」
呟いた声が講堂に拒絶され、跳ね返ってきた。




海の底で溺れかけていたあたしが、そのタイミングで彼に出会ったのは、奇跡に近い偶然だったんじゃないかと思う。
本当に、本当に、不思議な出会いだった。一期一会、とはよく言ったものだ。この四字熟語が存在するだけで、日本人に生まれてくる価値があると思う。




甘いワナ 〜Paint It, Black〜 2