マリンスノウ




「結局さあ〜ぁ、明るくてぇ〜、服のセンスがよくてぇ〜、細い子がモテるんだと思うの〜!」
君は、君が生活の一部を営む女子寮の一室で、抜けるような白い頬に朱を交えながら安い安い台詞を吐いた。
『私』は君の声をなんとなく聞き逃す風に安いカクテルのアルミ缶を傾けながら頷いたけれど、実は『僕』は嫉妬と羨望で叫びだしそうな本能を、安い理性で抑えることに必死だった。少なくとも、場を盛り上げるために電源を入れた虚しいテレビの内容なんか頭に入らないくらいには。
世間は私に私を『私』と呼ばせる義務を背負わせるけれど、私は私を『僕』と呼びたかった。そう、『私』は君に差し込むものは持たないけれど、君を『僕』のものにしたいという願望は人一倍だった。欲に餓えた獣みたいに。




「あ、もう21時だ」
『私』は、携帯電話の時計を見ながら、たった今、時間に対する認識をしたかのような声を上げた。
「そろそろ帰る?」
「うん、そうするよ。コンタクトつけてからもう12時間たつし」
「あはは、律儀だねぇ〜」
君は、『私』がお笑いが好きという性質を汲み取って、冗談をたくさん含んだツッコミを入れたけれど、『僕』は、君を連れ去りたい夜の魔力とアルコールの催眠術に襲われていた。髪を整えるふりをしてそれらの欲を振り切るように首を振って、下まで送るという君の優しさと意地悪さに甘えた。
「この時間は表通り使ったほうがいいよ」
古いエレベーターの降下音に、君の甘い声が重なる。
「なんで?」
「寮にいる子で、裏通りで胸揉まれるオッサンに会った子、多いもん。私も会ったことあるし」
「マジで?どんなやつ?」
「んーと、顔は見えなかったけど、わりと若い二十代くらいのスーツのオッサンで…」
「最悪だな!気持ち悪い!マジで!滅しろ!」
本気で怒りを含んだ『僕』の声を、心からの同情だと判断した君は、アハハ、と笑った。
「胸あるとこういう時『ペチャパイに生まれたかった』って思うんだよね〜」
「マジ死ねばいいね、その痴漢」
『僕』は、かなり本気でそう言ったのだけれど、君はやはり笑うだけだった。ありがとう、と、可愛いお礼を述べて、古い蛍光灯が照らしだす寮の玄関で、『私』を送った。




『私』は、夜の招く孤独から逃れるようにイヤホンを耳に突っ込んで、音楽をかけた。ランダム再生でプレイヤーが選んだ曲は、『マリンスノウ』。
ピアノのイントロが、キャパシティを越えてぼやけたコンタクトが、夜の街頭を演出する。少しでも君に似合う『僕』になりたくて選んだ10センチヒールのブーツが、足音と共に視界を揺らし、鈍った思考が心を乱し、そんな『僕』を嘲笑うような涙が世界を震わせた。
駅で電車を待つ。冬の近い風は容赦なく身を削る。
『そこから飛び降りれば簡単に決着(けり)がつく』
昔見た映画で、命の終わりの見えた獣が言っていた台詞が駆け巡り、ブーツの中で指先を暴れさせた。もう嫌だ。『僕』は楽になりたい。
ふと、視界の隅の階段の方を見ると、白の中に黒を入れ、赤を走らせたような見知ったデザインのジャージの貴方を見留めて、『私』は勢い良く振り返った。いつ見ても決して大勢の中にいない貴方を見て、『私』は貴方を何度も何度も心の中に浮かべていたことに気が付いた。
ああ、『僕』は、『僕』が思う以上に、『私』になりたがっているのかもしれない。
気付いた瞬間、貴方に声をかけようとしてかき消えた貴方を、心の底から思った。
貴方を幻に思うほど。とどのつまり、『僕』は『私』を知らないのだ。そう、知らないのだ。




空気みたいだと思ってた

なくしたら 息苦しくて




20091028






結構実話。
入学当初は仲良かったのに、なんであんな関係になっちゃったのかなあ。