たぶん、俺は、




恋をしていたのだと思う。




君の背中を見るたびに、俺は、後悔と孤独と切なさに囲まれる。
何故あの場所にとどまってしまったのか。とどまっていなければ君にはもう会えなかった。
何故逃げなかったのか。逃げてしまえば君は俺に失望していただろう。
何故君の背中を追わなかったのか。君を追っても君にはもう別の人がいた。
何故君は俺を見てくれなかったのか。君は俺を見ていないわけではなく、みんなを見ていただけだった。
何故好きだと言えなかったのか。君を好きだと言っても結果は見えていた。
全部言い訳かもしれないけれど、少なくとも俺からすればそれが結論だ。そして、現状である。現実から目を背けることは簡単だけれど、そんなことをしてもどうにもならない。この、みずぼらしいボロ雑巾のような俺が、今の俺にとっては世界の中心なのだから。




俺にはたぶん、失うものは何ひとつない。そんな偉そうで一匹狼のようなことを言っても、暖かい家庭もあるし、適度にいい友人たちにも恵まれている。もしかしたら、失ってから初めて彼らの存在の大きさに気付くのかもしれない。だから、俺が知らない、わかっていないだけなのかもしれない。けれども、今の俺にはおよそ見当もつかない。だって、今の俺は、わりと器用に立ち回っている。誰にも悩みや愚痴をこぼすこともなく、与えられた課題をこなし、余暇を趣味で満たした、人から見れば堕落した、でも自分にしてみれば快適な日々をおくっている。
けれども、君を見る度に、俺の心は、疑問で埋めつくされる。だって、いつも君は輝いていて、その輝きは、いつも俺の目を焼き尽くすから。
あの頃の俺と君を彷彿とさせる、美しい、まばゆい、きらめき。




「秋本、帰んの?」
山場に声を掛けられて、俺は、小さくうなずいた。
「んー、ちと飲み過ぎた。明日バイトだし」
「なんか悪ぃな、無理矢理連れてきちまって」
飲み会の幹事、馬山が、酔いに負けて若干前屈みに歩く俺の背中をさすりながら、言った。
「いや、俺もゴメン。調子乗った」
「ま、たまにはやけ酒したくもなるよな」
山場の言葉に、馬山が首肯した。
「気ぃーつけて帰れよ」
「ありがと。お前らもいい女ゲットしろよ」
馬山と山場が小さく笑い、他の友達と共に夜のネオンに飲まれていった。彼らは、これから女を引っ掛けにいくらしい。『甘美な夜を』。彼らの背に祈った。




俺は、帰路の途中、乗り換え駅のトイレで、少し俯いた。この表現がいささかおかしいのは自覚しているが、他に言い様がないのも事実である。吐くまでにはギリギリ到らなかったし、手を洗ったり用を足したりするわけでもなかった。洗面器の両端に手をかけて、ただ時の流れを待った。酒も手伝って、呼吸と、脈拍だけが普段より速かったのが聞こえた。

どうして俺は、ここにいるのだろう。何故、今の俺でなければならないのだろう。子供の頃、今の俺くらいの歳の自分は、もっと気品があって、高尚で、知恵の泉で、経験も豊富な、賢者のような存在になるのだと信じて止まなかった。少なくとも、今の俺のように駅のトイレの洗面器に俯くような情けない姿は思い描いていなかった。
子供の頃の俺が、 鏡越しに俺を見ている姿を想像して、あわてて首を振った。

こんな日にも、彼女は大好きな酒をたしなむのだろうか。いい酒なのだろう。仕事の後の、一杯。いつもとは違う日の。さぞかし美味いことだろう。噂で聞く、男前の亭主と小さな酒池肉林。もしかしたら話が盛り上がって、昔の自分たちを回想したりするのかもしれない。ちょっといいムードになって、夫婦の愛を確かめあったりするのかもしれない。彼女の艶っぽい唇が、細い指が、長い睫毛が、小さく震えるのを想像して、再びあわてて首を振った。頭から水をかぶった。
顔を上げると、予想以上に情けない色を宿した瞳で、けだるそうに俺を見ている俺がいた。数年前に、彼女のしわがれた声で、「秋本くんの瞳、綺麗だね」なんて言われたことかある。殺し文句だと思った。1週間はそれだけで飯が食えた。その日、一人になってから、即効で鏡を見た。今の俺からは想像もつかないような、美しい瞳をしていた。銀河すら垣間見えたような気がした。
俺は、濡れた手で鏡の中の自分を指差した。大きく「×」マークを書いた。

「もう…星になりてぇよ…」

酔いつぶれた大脳が、普段の俺からはありえない台詞を紡がせた。まだどこか第三者のような視点の俺が、自分を指差して抱腹絶倒している。そんなの、もうどうだっていい。誰に何と言われてもいい。今の俺は、失くして困るものなんてありやしない。

あと2年。あと2年ある。その間に、俺は俺を見つける。彼女なんかの手の届かない所にまで行ってやる。どんな手を使ってもいい。彼女に、すごいと言わせてやる。参りましたと言わせてやる。そうしないと、たぶん、俺は生きてゆけない。
タオルで頭を吹いて、洗面器のまわりの水を拭き取った。「×」の軌跡の残った鏡に、今度は「○」と書いた。
「見てろよ…」
小さくつぶやいた言葉は、古びたトイレを揺らす電車の騒音にかき消された。




20090530






もう会わないって決めた人を、遠くから見てきた日に書いたもの。
全体的に意味が分からないのは、この文章が外に向けられたものではなく、内に向けられて書かれたものだから。