学校が好きだった。




彼女は学校が好きだった。



4年間も通っていると、名前も知らない人なのに、何故か顔を知っている、覚えている、ということが、ある。
俺は、なぜだろう、学食で友人たちの下ネタの延長線上に彼女の話題が上がり、その彼女の外見的特徴を聞いたとたんに、『あ、あの子だ』と、わかってしまったのだ。
それは、ねっとりとしているのに口当たりの良い琥珀色の蜂蜜のようでいて、強い刺激を纏って喉の奥をぐっと締め付けひとときの安らぎをくれるブラックコーヒーのようでもあって。
運命、なんて、お決まりな一言で片付けてしまっても、はたしていいのだろうか。




「おい、見ろよ」
キャンパスを友人と歩いていると、友人が唐突に声をひそめ、とがった顎で前方を差した。
見ると、腿に着くほどのロングヘアーを跳ねながら、彼女が歩いていた。スタイル抜群、だけども街中ですれ違っても特になんとも思わない容姿ではある。
噂の、彼女。
何故俺が彼女のことをこれほどにまで覚えてしまっているのか、なんてボンヤリ考えながら、すれ違う瞬間まで、彼女の目を凝視していたのだけれど、彼女は俺なんかには目もくれず、じっと空間を見つめていた。
…いや、空間の後ろにそびえ立つ、『それ』を、見つめていた。
彼女の姿が見えなくなるまで、肩越しに見ていた俺たちは、どちらともなく声をあげた。
「やべーな。あの噂、マジっぽいね」
俺は、目を丸くして、彼女の背を、長い髪を見つめたまま、小さくうなずいた。
彼女の姿を半分以上覆い隠すその髪は、自身の髪を伸ばして手綱代わりにし、塔を抜け出す少女の童話を彷彿とさせた。
彼女が抜け出したいのは、人々の好奇の目線からか、それとも、小さな小さな枠に填まる、この世界からか。
風が強く吹いた。彼女の長い長い髪を横に走らせて、校舎の白さがその黒を際立たせる。彼女が髪を押さえて、扇いだ。
『ああ、本当に、愛しいのだな』と、俺は思った。




就職も決まって、遊んでばかりもいられず、少しはバイトもして小金を稼いで旅行なんぞに行ったりしていたら、あっという間に卒業が来た。
袴なんか着るのは張り切りすぎて痛々しいかな、と思って、就活で使ったスーツをそのまま着こんできた。とはいえ、さすがに50社以上駆け回って、間接の部分が磨耗して変なテカリを帯びてきたくたびれスーツにしたのは恥ずかしかったかな、と、今朝姿見を見て不意に思った。
興味のない式が終わって、『卒業記念パーティ』と証した、ただの立食会へと移行した頃、俺は友人たちに適当な理由を述べて、式を抜け出した。
不況の折、俺みたいなのが就職決まったのはかなり運がよかっただけだろう、卒業だというのに進路が決まっていないやつは多く、俺の周りは特にその色が強くて、あまり楽しめるという雰囲気ではなかった。
俺は元々、こういった「節目」のためだけに存在する儀式が嫌いだったし、いい大人だ、自分の意思で行動したい。途中で抜け出すくらいなんということもないだろう。
うちの大学は、幼稚園から大学までの付属校で、一環して同じ敷地内に存在する。その代わりと言ってはなんだが、敷地だけはだだっ広く、学生寮はもちろん、体育館、テニスコートにゴルフ場、原っぱまで存在し、野良の狸が顔を出すほどだ。雑居ビルが立ち並ぶ都会で、ここだけが切り取られたように美しい。
だから、彼女も、この姿に心惹かれたのだろうか。
春を感じさせる、ふわりとした風に抱かれながら、新生活用に短く切った髪をなびかせて、俺はその白い姿をまじまじと眺めた。
4年、と言葉にすると長く感じるけれど、ひと呼吸をするのと等しいほどにあっという間だったと、素直に思える。そのたった4年、されど長い長い4年を、俺はこの校舎と学んできた。
雨風に曝されているのに、どうしてここまで無垢なほどに白いのだろう。生命を輝かせる準備の整った桜の新芽を見下ろして、その白い姿は佇んでいた。
俺の、学び舎。
そして、彼女の学び舎でもある。
俺は、何かを感じながら、歩を進めた。




人気のない校舎は、影と光の共存する空間だった。窓から差し込む日の光と、それ以外の影と。
うちの大学は、たいしたネームバリューもないくせに、歴史だけは長くて、雰囲気だけはある。古く、かび臭さが嫌いだった。けれど、今はそれも愛しい。
卒業式というだけで相当な感傷モードに入っている自分が馬鹿馬鹿しくて、鼻先で笑い飛ばして、先ほど校舎に入っていった噂の彼女の姿を探して歩き回る。さほどの時間はかけず、目当ての彼女の、遠い声を聞いて、そこへ向って忍び足を進める。
『…………な…だから…………でしょ……』
一番隅の教室で、彼女の声を聞いて、俺は歩みを止めた。
中を伺うと、彼女は、教室の真ん中の机に腰掛けて、仰いでいた。
愛しい、その校舎を。
赤と紺のコントラストが、何故だかノスタルジーを誘う袴姿だった。なのに、髪の毛はいつものように長く遊ばせたまま、机の上を彷徨っている。
「ふふ、なんだか悲しいとか寂しいっていうよりも、懐かしいな」
彼女はそういって少し俯いた。日の光が、彼女の輪郭だけを消し、それ以外の存在を如実に浮き上がらせる。
「君とももうお別れだっていうのにね。わたしは、寂しいっていうより、懐かしいの」
「アハハ。なによ、それ」
「もうっ。またそうやって馬鹿にして…」
「…君とも、あんまり会えなくなっちゃうね」
俺にとっては、ただの独り言にしか聞こえない。でも、彼女にとっては、そうではないのだ。
「ああ懐かしいなあ…本当に」
「…『どうして懐かしいのか』って?……それは、ほら、だって、さ…」
彼女は、少年のように地を蹴る動作をしながら恥じらいを誤魔化して、すっと背筋を伸ばして、声を張った。
「君に抱かれた日のこと、思いだすから」
彼女の言葉に、返事はない。いや、俺が聞こえないだけなのだろうか。
「ねえ…最後にもう一度だけ、お願い…。そうしたら、君のこと、全部、全部忘れるから…」




そう言って、彼女は壁に耳を当てると、俺がこれまで見聞きしてきた全ての言葉を駆使しても表しきれないほど美しく、校舎に抱かれた。
俺は、聞き入ることも、逃げることもどちらもしきれずに、ただ廊下で一部始終を「共に」していた。
大学には特に思い入れもない。学校も別に好きじゃない。学校にいるのはだるくて、出来る限り自宅や、学校外での場所で過ごそうとした。
俺が、どうしようもなく学校から離れていたときに、彼女は、1ミリでも近く、学校のそばにいたかったのだ。
それほどまでに、魅力的な存在なのだろうか。




彼女は、学校が、好きだったのだ。




彼女の白い肩と、長い長い夜の露のような髪の残像が、今も頭にこびりついて離れない。




20110409






大学の卒業式、計画停電初日でして、世間が大混乱で、馬鹿みたいに電車が全て止まっていたのに、うちの大学は決行しました。
カス三流大学だとは思っていましたが、本当にカスなんだなって、最後の最後に失望させてくれました。