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意図的にそれを手にしたことはないのだけれど、自分が何故か大体の男に気に入られる要素を兼ね備えているのは自覚している。自覚があることを口にすることは愚かなことで、口は災いのもと、言霊に乗せることで余計な争いを招くことは過去の経験から知っている。わざわざそれを口にするような歳でもなくなっていた。だから何も言わない。


駅から歩いて10分ほど。近いとは言えないけど、遠いわけじゃない。この距離が、話すのには丁度いい。一番盛り上がったところで家に着けるから。物事は、「もう少し」の頃が一番楽しいのだ。
鍵を開けて、家の中に入ると、靴箱の上に荷物を置いて私の唇を塞いだ後に、小さな声で「風呂入ってくる」と言う。彼の後に私もお風呂に入って、事が済んで次の日の朝になる。バイトの後はいつもこれ。だから、バイトのある日は課題なんかできないから、私はいつのまに、与えられた課題を与えられた翌日に片付けてしまう癖ができた。こんな癖、小学生以来。
一人用の狭いベッドで肩を寄せ合って寝る。先に目が覚めるのはいつも私。ベッドの上に上半身だけ起こして、隣で眠る男の顔を見る。憎らしい寝顔。小説やドラマで人の寝顔がかわいいなんて描写や表現を、それこそごまんと見聞きするけれど、私は、他人の寝顔がかわいいと思ったことは一度もない。特に、この部屋に来る『男』の顔は。


携帯電話の番号も、アドレスも、自宅の住所も知らない。実家が神奈川だということを辛うじで聞いたことがあるくらい。東京の大学を出てプラプラしてて、運がよくてたまたま今の職に就いたと聞いたが、何という大学の、何という学科を出たのか、とか、詳しいことは、何も。大学を出た後、具体的に何をしていたか、とかも。妹が一人いることは確実だけれど、他の兄弟は知らない。どんなところでどんなふうに育ったのかも。
私は、もっとたくさんのことを知りたかった。あなたが歩んできた全てのことを。見たかった。聞きたかった。感じたかった。細かいことも残さず、二人で一緒に。生まれてからずっと、一緒にいることは不可能だと知っているけれど、理屈っぽさを全て捨てた言葉を使ってもいいのなら、ただただ一緒にいたかった。これからも、じゃなく、今までも、これからも。ああ、こんなことをあなたに言ったら怒られるのだろう。あなたは意外と理屈っぽいところがあるから。
バイトではあくまで社員とバイトだし、それを越えているように感付かれてはいけないのだと思う、大人としては。それでも、一緒にいたくてシフトを増やした。授業をたくさん犠牲にした。遅刻、早退常習犯。たまに出ても睡眠学習は当たり前。アルバイトのしすぎで、長期休みでないのにも拘らず、一ヶ月で二十万近く稼いだこともある。
そんな私を彼は一切咎めなかった。「授業出ろ」なんて言ってもくれなかったし、「単位は大丈夫なのか?」とも言わなかった。彼は、『人生、自己責任』がモットーだとか。その通りだと思う。それ以下でもそれ以上でも、ない。
だけど、それ以上でもそれ以下でもないと、寂しいじゃない。
私は、そんなに強くないのよ。
床に散らばった彼の服をまさぐって、タバコとジッポーを取り出した。火を点けた。苦い。苦い苦い。彼の吸っているタバコ。同じものを共有しているはず。なのに、ちっともうれしくなかった。苦い。苦しい。同じ漢字だ。


「ん…」
小さく呻いて、隣の男が目を覚ました。
「おはよ、ひとみちゃん」
枕に頬を預け、目線だけ私によこして呟く。肺を煙が侵食する。あなたの欠片が、私の肺を。
「それ、俺のタバコ…。俺、タバコ吸う女性は好きじゃないなあ」
「店長」
私は言った。
「もう、やめましょう」
タバコの肺を、ベッド脇のテーブルの上のマグカップに落とし、
「もう、終わりにしましょう」
男の眠そうな顔が、とたんに引き締まった。唇を固く結んで、何故か少し泣きそうな顔で私を抱き締めた。
「ひとみちゃん。ごめんな。俺、自分のことで精一杯だから、誰かに何かをあげることとか、できないんだよ」
知ってました。
「もう、辛いよな。苦しいよな」
苦い。苦い苦い苦い。苦しい苦しい、苦しい。
「ごめんな」
やめてよ。謝らないで。『終わりなんて嫌だ』って、言ってよ。なんでそこで私のために。あなたの優しさが嫌い。本当に、嫌い。
優しくない。
くわえたタバコから、彼の背中に灰が落ちた。彼は微動だにしなかった。
「そのタバコとジッポー、あげるよ」
小さく呟いて、
「ごめんな」
彼は去った。

私は、タバコを吸い続けた。私たちは、お互いを理解するには、別々の道を長く歩みすぎたのだと、思った。
苦い苦い煙。この香りが、この部屋に満ちて、そして染み付いてとれなくなるのだろう。私の心にも、しばらく染み付いてしまいそう。
ああ、苦い。




20090907






年上との会話は怖いです。