←injurer & victim 1 injurer & victim 2 いい場所があるから、と彼女は俺を行き着けの店へ連れて行った。てっきりいつもの居酒屋に行くのだと思っていたら、彼女は俺を検討違いのところに連れてきた。東京のど真ん中の、眠らない街の、まさに眠らない空間。こんな場所があるのかと思わず関心してしまう。表通りを反れていくらか行ったところに、小さな看板と、地下へ続く階段があった。 「え、ここ?」 俺は思わず声をかけた。大学生が気軽に入れるような雰囲気ではない。きちんとした正装の上品な大人たちが出入りするような空間。 「うん。そう」 ひとみは、さも当たり前といった感じで頷いた。階段の前で立ち止まって話す俺達は、露骨に子どもっぽいかもしれない。 「大丈夫なの?俺、もろにジーパンなんだけど」 「菅原くん、上品だから大丈夫だよ」 「でも、俺ら学生だし」 「私何度か来たことあるもの。大丈夫よ」 「……」 「帰りたい?」 沈黙した俺に、小首を傾げて問いかけてきた。俺は彼女を見返して、メガネを押し上げた。 「行くよ」 黒いドアを押し開けると、そこにはドラマで見るような洒落た空間が広がっていた。飲み屋?居酒屋?いや、バーだ。確実にバーだ。蛍光灯なんて無遠慮なものはなく、星空の延長戦のような雰囲気は特別な夜を演出するための装置のひとつか。 俺は、慣れていないと悟られるよりは、慣れている彼女の後に着いていくほうがいくらかマシだろうと判断し、彼女に任せることにした。 「カウンターでいい?」 「うん」 「いらっしゃいませ」 カウンターに腰掛けると同時に、バーテンダーが紳士的な礼を向けた。 「菅原くん、何にする?」 問うひとみに、俺は平静を装って言う。 「俺、ぶっちゃけよくわかんないから、ひとみに任せるよ」 「ほんとに?」 言って、ひとみが覗き込んできた。どこか挑みかかるような目線だった。どこかに息苦しさを覚えて、俺は、視線を逸らしてひとつ頷いた。 「飲み会で、俺のザルっぷりは知ってるでしょ?だいたいなんでも飲めるよ」 「バッファローコンビのお気に入りだもんね」 「嬉しくないけどね」 ひとみは、口元だけで笑うと、 「私はサイドカー。彼にゴッドファーザーを」 「かしこまりまいた」 バーテンダーは、品よく整えられた髭の生えた口の端をあげ、調合を始めた。ひとみがさらりと口にした名前に、俺は眉をひそめた。ゴッドファーザー。さっきから、あのテーマソングが頭を行き来している。 「俺、ザルだけど、カクテルはあんま詳しくないんだよね」 「そうなんだ」 「サークルで行った合宿で地酒は結構制覇してるんだけど」 「私、日本酒ダメなんだよね」 「日本酒よりもカクテルとかそーゆー感じだもんな、ひとみは」 花が笑う。情熱の愛を象徴する薔薇だろうか。それとも純潔を表す百合だろうか。 それから他愛もない話をしている間に差し出されたカクテルは、俺の酒飲み生活の中で『強い酒』という基準を覆す迫力だった。火がつくとはこういう感覚だろうか。けれど、美味い。 「ねえ」 ひとみが、静かにグラスを傾けて聞いてきた。 「ヒロユキくんって、今ユウコとどうなってるの?」 ついにその話題か。彼女が俺に声をかけてきた時点で、それに触れることは予想がついていた。彼女は気づいていない。彼女自身が、もう、ヒロユキのことしか考えていないという事実に。何故俺がそれに気づいているかって? 「この前の飲み会のとき、ひとやま越えたらしく、今はそれなりによろしくやってるみたいだよ」 俺は、ぶっきらぼうにそう答えると視線を投げた。どこへ投げたのだろう。彼女でないどこかへ。あいつの話をするときのお前が、どんな顔をしているか知ってるか? いたたまれないんだよ、俺としては。 「そっか」 彼女は、ぽつりと言った。 「みんな幸せになってくんだね」 まるで、ひとりぼっちになってしまったかのようだった。置き去りにされた子どものような横顔が、たまらなく俺を切なくさせた。 「ひとりじゃねーだろ」 言って、俺は酒を煽った。同じものをバーテンに注文する。 彼女は、足を静かに組みなおして、 「うん」 そっと答えたその返事が、同意を指すのか相槌を指すのか、それとも拒絶を指すのかは、よくわからなかった。 →injurer & victim 3 |